街の珈琲タイムと田舎の珈琲タイム

 

 

インスタントの珈琲の質もどんどん良くなっていて

ふくろうの鳴き声のする周囲がほぼ真っ暗闇の田舎暮らしで

ひとり飲む珈琲は、いろいろな思い出を引き寄せてとても美味しい

 

街中で楽しむカフェ珈琲は若返るようでこれもまた美味しい

 

脳が整理つかないまま人の声が行き交う中で久しぶりに珈琲タイム

 

作家脳というほどの業績がないので書くのも恥ずかしいが

若い頃、東京で編集者と打ち合わせをしたことがあったり、

著名人のお忍びに少しお付き合いでお茶した時の高揚が蘇ったり

 

生きているって、束の間?

恐ろしく早いじゃない?

ゆっくり美味しい気分が脳を楽しませるのに、そういう感覚もついてくる。

 

生き方上手な人ばかりとお茶してきたわけではなく

何故だか、その人にとってのどん底な気分の時に思い出してもらえるようで

私のかげの名前は救命の人、と呼ばれていて口コミで、とある時

白状してくれた人がいた。

もっとひどいネーミングはお助けマンだった。

正直、聞いたあと、しばらく落ち込んだ。

 

どうりで再会はほぼない人が多かったはずだ。

助けてもらった人には黒歴史だもんね・・・

そう言ったその人ともたぶん再会はない。

 

今は誰も助けられないからか

孤独だなあ・・・と思う時が多くなった。

 

街の賑わいの中

そういうことか・・・だから孤独なのか、と

思い出さなくてもいいことを思い出した。

 

暗闇の田舎での珈琲タイムはまた違う世界がある。

いずれ人は一人であの世へ帰っていくのだから

こっちのほうが辛くないか

 

 

空港で機内へ乗り込む前の珈琲タイムのようで

なんだか消えていくものではなく、去っていくものではなく

次がある心地よさがあって、だから年をとると自然に目がいくのかな

と妙に悟りを得た気分になった。

 

この孤独感ってコロナ禍によるものなのか

自分だけじゃない気がするのも妙

 

会いづらい

電話しづらい

時間があけばよけいに気を遣いだんだん心の距離も遠のいてしまう

 

車内へ戻り自宅へ戻る途中ふと思った

慌ただしい時間に追われて夢の実現に全力投球のさなか、人が大勢いる都会で

お助けマンへの電話だったとしても、まっすぐに近づいてきた人たちがいた。

 

 

なんだかありがたい気がしてきた。

 

いいじゃない

お助けマンで

 

 

揺れる二拠点生活

私はやっぱり奥ヤンゲンの人かもしれません

東京で暮らしていても田舎で暮らしても、もうだんだん奥ヤンゲン

 

こんな感覚は自分だけじゃない気がします。

この時代の現象、人との距離の遠さの弊害かもしれません。

 

早く何にも考えないで

楽しんで珈琲が味わえるといいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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