• 聖書
不思議な夢

不思議な夢をみました。

 

大きな雲が二つ重なるように垂れこむようにどんどん迫ってきて

部屋にいた人たちへ逃げて、と叫んだが

それは満ちてしまって

被った雲の正体を見極めようと目を凝らし続けていると

姿がはっきり見えてきた。

 

いくつかを見たがどれも同じ姿ではなく

気を失いそうなほどの恐怖に襲われ

しばらくすると

見覚えのある祭司が数名入ってきて

自分も白い着物を羽織って加わった。

 

子どもたちや亡くなった母親がさわやかな笑顔で嬉しそうに

私を招いていた。

 

久しぶりな子供たちに、

「元気そうだね。いきいきとしているね」

といい、

母の嬉しそうな顔に緊張しながら頷いてみせた。

 

***

 

今朝は非常に具合いが悪い。

 

子供と二人だけの自宅で過ごす生活も2か月はゆうに過ぎた。

 

洗礼を受けたあと、もう何年も心の奥が不安を覚えたことはなく

洗礼前は怖いことは当たり前に多く感じたのですが、

洗礼後の歳月は心の奥が凪だったというか、波立ったことがない。

 

***

 

ところが夢のあと、今日は五臓六腑に恐れがついたような

これまで経験したことのない畏怖に包まれている。

 

「とりなしてがいない」

 

聖書にある言葉だが、ここにおります、主よ!

と調子よく、つい昨日まで祈っていたのですが、

今日は頭がまわらず、違和感がいっぱい。

 

***

 

神様はおられる。

 

祈りはほとんど叶えられてきたと思う。

 

自分の事より他者のことをその方の痛みのままに祈ると

ほぼ叶えられた。

 

お金が数分で与えられた人もいる。

 

病気が治った人もいる。

 

奇跡としか思えないようなことは何度も経験した。

 

自分は祈りてだと自負もあった。

 

***

 

人は悪魔ではない、と聖書にあります。

 

その人の心の思いが呼び寄せそれを行わせる。

 

前回、一回目の血潮、額(思い・思考)を少し書いたが

完成の7回の血潮の意味を書くのを休んでいるのも気が引けている。

 

遅くなるようにみえても間に合わないことはない、とも聖書にあります。

 

私の夢に出てきた祭司の顔。

 

役に立たない者だけにはなりたくない。

 

恐れるな、たじろぐな、虫けらのヤコブ、わたしはあなたの神である。

 

***

 

「時」

がきたのに、一心に祈ろうとするのにまだ何かが邪魔をする。

 

ふたりあるいは三人以上の者でわたしの名で祈るならばなんでもそれを叶えようと神が語っておられる。

 

子供は今を仕方ない、とはっきり言う。

 

まっすぐブレずにいつも一緒に祈ろうとする。

 

この子は障害がある。

 

天使だとなんども思ってきたが、

夢の中でこの子は一緒にいた。

 

守らなければ、と感染予防に倒れるわけにはいかないと気を張ってきたが

今日のこの時のために、わたしたちはいたのだと思う。

 

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

わが父、わが父、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

 

アラム語を研究しているのだとここへコメントを下さった兄弟が

「わたし、このわたしは、このときのためにあった」

という訳を説明書き送って下さったことがある。

 

わたしは在る、という名の神様。

 

十字架上の神の業を知るには十分なことばだと私は鳥肌が立った。

 

私たちはあなたの似姿まで練られ育てられます。

 

復活の姿は、イエス様がなされたことを書き記すなら、この世には入りきれない

というほど、救われた人の数は多く、神に似せられて造られた人の数はおびただしい。

 

いつでもどこでも祈れる時代

感謝して今日も祈る。

 

***

 

ひとりは階下へ荷を取りに戻り、ひとりはそのまま喜んでついていく

戻るのは魂という殻へ戻ることをいい、

喜んでついていくのは聖霊なる神の招きにそのまま従うこと

と教会で教えていただいた。

 

もちろん後者以外を思ったことはない。

 

魂の殻が破れて神の霊が溢れた喜び以上の至福はない。

 

自分のちっぽけなやり方など、どれも思い出したくない悔いばかり。

 

謝り続けても足りない魂のままだった頃の人生の足跡。

 

どれも自分でいくら謝って悔いても過去は戻らない。

 

ところが殻が割れたところから過去さえも踏みなおして下さる主がおられた。

 

神の子の血潮の贖いの力は時空間も越え自在、無限大。

 

だからのうのうと今、自分はこうして生きておれるのだと何度も思います。

 

誰彼の力で弁償できるほど、誰彼の一人の人間の力で人の人生は救えない。

 

人はいつも知らずに存在だけで他者を傷つけることがある。

 

そういうことさえ、神を見てしまったら、

膝まづいて祈る人にかえられていくのだと、私は思います。

 

「とりなしてはここにおります。お使いください、主よ」

 

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