- 投稿 2020/04/20更新 2020/04/23
- 祈り

67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、
また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」
(マタイ26章)
イエス様がオリーブ山で血の汗を流して祈られた時、「思い」は、
罪のない贖いの子羊へいよいよ人の罪が転写されていきます。
レビ記のなかで、傷のない贖いの動物へ大祭司が手を置きます。
そして自身の人間という罪を転写し、
祈りの至聖所へ向かっていきますが、
罪が残っていると死にます。
ふさについていた鈴が鳴ると、急いでその祭司を引き出し、
次がまた新しい傷のない罪の贖いのための動物へ手を置き祈り
入っていくのです。
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イエス様は、その犠牲の子羊としての役割を始められました。
同時に覚えてほしいのは
この方は大祭司としてのお役目を果たしていくということです。
ナザレのイエス様は罪がありません。
聖霊によって女のすえとしてお生まれになった方が蛇の頭を砕くという
聖書の言葉通り、処女マリアによってお生まれになったことは
大抵の方が知っていると思います。
私たちは男のすえです。
精子によって生まれた正真正銘の人間同士の受精卵のすえ。
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ヨセフというマリアの許嫁が育ての父親ということに人の考えは及んでいきますが
イエス様の系図はダビデ王の系図、ヨセフの家系図が辿られます。
書いていても鳥肌が立っていきます。
壮大な神様の業、繊細な組み合わせ、すべて摂理があり、
どこにも矛盾がありません。
ことばですべて説明されて聖書におさめられています。
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大祭司であることも
罪のない贖いの子羊として人類の罪を贖うことも
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人は人類初のアダムによって罪が入りました。
どんなに聖人君子の人であっても自分が十字架にかかる
私が負う
と名乗り出ても、人には大祭司の罪を取り除くことはできません。
神は永遠のいのちという新創造へ、人を移して下さろうとしています。
そこは聖なるところ
闇は光に勝てませんから
気持ちで存在できるところではないのです。
イエス様のお名前は数字では888
ねじった丸がふたつに見えます。
狭い道を通って上の丸へ移行させる。
狭い道が、「わたしが道だ」という道です。
イエス様のお体しか罪の転写をみることができない。
ウイルスや菌が手洗いで消えずに残って顔や他者へと広がっていく
のがブラックライトでわかる液体がありますが、それを想像してみてください。
額
顔
と人の罪が転写されました。
これが名乗り出た普通の人だともともとあるので、はっきりと区別がつかず
ただカオスです。
ナザレのイエス様ご自身がご自身の上に手を置く
2人を証しの数、というのは書いた記憶があるので
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7つは完成・成就の意味
2カ所目、顔をこぶしで殴られたら血が流れます。
顔は、プライド、恥を象徴します。
顔が殴られ人類への贖いの代価である血が流れました。
「死と復活」
十字架に預かる者のプライドや恥は人の中にあって死に渡され、神の聖なる領域、すなわち永遠の命の領域で復活する。
死んで三日目に蘇られたイエス様は
黄泉にまで下り、天に上られ
御父はその流された血のあとを見て満足されたとなる、プロセスが、
二カ所目を通りました。