- 投稿 2020/07/04
- 子育て・教育

わたしには枕を高くして眠れない気の弱さがある。
救われた者なら
その罪も消えているだろうに
寝る前、
一人、ひとりの子どもの名前を呼んで、
神様、お守りください、と哀願している。
信仰を得ていなかった時と変わらないではないか、
と言われても仕方がない。
***
洗礼を受ける前、
がむしゃらに子供たちを守るため、働き
前に、前にと走って生きてきた。
どの子が転んだか、どの子がどの時泣いていたか
落とさないよう、全力で守り走ってきたように思っていた。
信仰後
第一子、二子・・・
そういう感覚は昔からないが
体内にいた時、母親は自分の体の一番いい所で命をかけて
胎児に無意識にいのちを送っている。
どの子が一番大切か
承認欲求など、神の摂理のなかでは無意味
***
現場で
母親のいのちを優先するか
母体を優先するか
赤ちゃんを優先するか
そういうトリアージに直面する時もある。
人間が誰を優先するか、
最もおこがましいことだと命を救う現場では誰でもわかっている。
***
聖書を読んだことのない人でも
今起きていることは、相当な危機なのだと誰もが思っていると思います。
TVや映画ではない。
私の人生の大半はほぼ医療現場で過ごしてきた。
リアルに人の体はいきものである。
手術で開腹すれば
筋肉弛緩剤が切れかかった時、
臓器は、皮膚や筋肉や脂肪のむこうで
他の生き物と大差ない無防備さでいる。
***
ことばという緩和剤、緩衝でどれだけ人は救われているか
神の子がことばとなって生きられた、という意味が沁みてくる。
洗礼後、
生きることの繊細さを思う時、
我が子、
一人、ひとりの命を自分を守るより繊細、かつ大胆に守り
生き抜き
ただ生きるのではない。
能力を存分に生かし切り
最高の幸せを満喫して
良い人生を、よい出会いを、
などと親なら誰でも思うことを考える時、
膝を折って、
神に祈る方法が一番だと何度も思い知る。
***
私の手法など
通用しない時のほうが多かった。
どの子も痛い目に何度も遭わせた。
悔いばかりがある。
助けて下さい
吾子を助けて下さい。
どの子も
わたしにとってはひとり子のようにかけがいのない吾子
霊は平安で洗礼後ブレたことは一度もない。
助けた方の与えて下さった平安は当時も今も同じである。
体が子を思って苦しむ時、
刹那、
神が与えた一人、ひとりへの洗礼を思い出す。
出来損ないの母親、上等だ、お前の子らは
それで洗礼をどの子も受けているじゃないか。
あとは
寝ている間に起きている間に
そうこうしている間に育つものだ。
***
どん底で
子を産み育てる義務のさなか自分の健康管理さえもできず
死ぬのか、と無力、絶望の淵で
「助けて下さい。子どもたちを置いてはいけない。誰か助けて下さい」
と呻いた言葉は、
その祈りは叶えられたではないか。
黄泉にまで下って、沼底から総ざらいをしてあるではないか。
天にまでつながっている道の中、
もうもがかなくてもいい、と抱えているではないか。
それでも今日も
ああ、あの子を、この子をお守りください、と祈る罰当たり
ひとり、一人を並べているのに
同時にひとり子として祈れる摩訶不思議が起きる。
胎内でひとりひとりに胎盤という続き一体があるように
その続きは変わらない。
***
赤ん坊は手を握り締めて生まれ、
亡くなる時はましてや、
人はなかなか指を広げようとしない。
両手を広げ十字架で死に渡された方以外
自ら指を広げて命への執着を断ち切った潔さを
残念だが人が成し遂げたのを見たことがない。
命のセンサーはそのように造られているのだから
神の子の死の形に意味がある、というのは
体を知れば知るほど、恐ろしく身に迫ってくる。
***
山の登り方はたくさんのルートがあるのだと思う。
私は医療という現場から
神の山登りを何度も思い知らされた。
自分の命以外を守る職能の重さや子育てから
思い知らされた。
偉そうなことは人には言えない。
ただ祈るばかりである。
***
神の子は30代という最も美しい年齢で最上の仕事を果たされた。
若さは神の体現、
吾子よ、
神がそう呼びかける。
神は同時に人を、吾子を一人きりとして扱える
とりなして祈ります。