- 投稿 2020/07/05
- 祈り

37 わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39 じぶんのいのちを自分のものとした者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
(マタイ10章)
自分から指を手を離すことができない人間各自の愛着を
どうあがいて処理しようにも無理がある。
人の脳にはそれを記憶する場所があり、
それがあるゆえに
十字架上の神の成した業があり、復活というプロセスがある。
神を愛するゆえに
悟った、と子を手放すような者を神は喜ぶだろうか。
***
神の奥義は
「わたしがした。あなたにはできない。わたしがした。わたしに帰れ」
である。
人間にはできないことをした、
それが信仰のもといである。
人にできるなら神を知る機会はない。
神は存在の根源である。
***
十字架上の形は無力の極みである。
「死」である。
それも神の子の
「死」である。
それを信じて、ただ信じて
神の子の「死」に渡した先に起きたことを信じて
初穂のあとに繋がっていける道、
それが今の時代に生きる恩恵だと思う。
「死」
の先、
十字架の先を知るのは、当時、神のみ。
私たちひとり一つの身を持つ今も
目を閉じて実際、自身の「死」をその身に帯びなければ
見たことではないから、正直、わからない。
***
信じて目を閉じる。
猛者でも人にはできない。
先に実践し、見せて下さった方の神に対する絶対な一致、信仰。
それを超えることは、誰もひとはできない。
多くの方々の臨終の時、立ち会った時、
医療従事者冥利に尽きる瞬間がある。
誰もが極みで安堵の表情を見せるのが、とても腑に落ちる。
この地上で最愛の人に見せただろう表情とも違う
一番安心する人に見せる顔とも違う。
赤ん坊が泣きながら生まれるなら、
人は最後、誰かの顔に迎えられて逝くのだと思った。
神の御顔を見たのだろうな、と何度も畏れに畏れた。
***
神の御顔を見たらみな死ぬのだと書いてある。
生きている間、ことばに在って、霊に在って、生かされてきた。
目を閉じた時、
ことばは終わるのだ。
人の霊は天に上り、獣の霊は地に下る。
天は、神のおられる確かな所
幼い時からいつのまにか知っていること
***
祭司だった親を看取った夜、
「怖いねえ」
と息の合間に言うのを聞いて、
生き死にが怖いのではない、というのを悟った。
その時だ
子をゆだねるしかない先はそこにある、と悟った。
神を知る、ということは何よりの親孝行だと思った。
本当の心配事を親に課さないからだと、
今なら不思議なこの順序に、神の深淵に感謝するばかり。
子らが親孝行だということに今さらながら頭が下がる。
私は悔いなく、目を閉じてよいのだと頭が下がる。
子らのことを云々、祈り続けるずうと先にまで伸びてある御手、
神の恩寵
ただ恵みである。
愚かな母親に伸びた神の御手、恩寵である。
***
弱い人は幸いである。
死の極みに強い人など存在しない。
神は光にそっと私たちを移そうと今も見ている。
神はわたしたちの親
誰も滅んでほしくない
光へ、移そうと
繊細に、各自に合わせて、御手を伸ばしておられる。
神は愛。
永遠のいのちである。
そこへ抱き込められている感覚、それが私の信仰である。