ぶどうの木

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

   (ヨハネ15章5節)

 

子供の頃、ぶどうの木の下で友達と鬼ごっこをした。

小学校へ入学してすぐの頃だったと思う。

友達の伯父さんの家に遊びに行った。

 

 

よその家で遊ぶことはほとんどなかったので、

その時の光景を今でもはっきり覚えている。

 

小さな子供たちが駆け回るのを

温厚なご夫婦は飲み物まで用意して

「おもてなし」してくださった、と覚えている。

汗をいっぱい掻いて、庭先でいただいた飲み物を覚えている。

 

今のように物がいっぱいある時代ではなく

ましてや田舎

遊びにくる子供の集団へ飲み物を用意する習慣はなかった。

 

長じて

仕事でご高齢の婦人を訪ねることになった。

弱っているところなどないように思える程

立ち居振る舞いは上品で穏やかな方だった。

そろそろ帰ろうとすると、

「あなたの本を買いました」

と、棚から出して見せて下さった。

後日、本屋から回収された私の処女作で、自分も数冊しか持っていない。

 

「私はあなたより先に召されると思います。

正直に聞きますね。あなたはクリスチャンですか」

「いえ、まだ」

違います、とではなく

私は、まだ・・・と答えたのだった。

 

ごめんなさい、忘れて下さい、と

お辞儀をされたので、

帰ろうと靴を履いた。

あれ?

「ぶどうの木」

子供の頃、遊んだ家のおばちゃん?

 

そのまま聞いてみた。

そう、そう、あなたは遠慮してひとりだけ

どれだけ声かけても飲み物に手を伸ばさなかったのよ、と。

それであなたのお母さんへ話して、

翌日、お母さんと一緒に来て、

ぶどうの木の下で思い切り一人で遊んでいたのよ。

お母さんと一緒に飲んだ飲み物、覚えている?

あなた、さっき飲んだわよ、と。

 

子どもがいなかったので、

飲み物を躊躇した子供に胸が痛んだという。

(なんて面倒くさい子供だったんだろう・・・)

と、申し訳ない表情をしていると、

本は何度も読ませてもらってますよ、と笑い

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です」

という聖書のことばを教えてくださった。

 

低くのびるぶどうの木の枝

低くしゃがんで苦しんでいる人へ、人へと伸びていく神様の御手

あなたもしゃがむ人なのよ

子どもの時と何も変わっていない。

今日がとても待ち遠しかった、と握手して下さった。

 

車まで見送りに来てくださった養子の方が

母は、コーラーの瓶がきちんと冷蔵庫に用意されているか

何度も確認していたんですよ。

本もちょうどあなたから見える場所に置いて

子供の頃の話をしていました、と

 

十数年後、教会で

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」

というメッセージを聞いた時、

私は泣くだけ泣いた。

 

その方は、その後しばらくして亡くなられた。

もう一度訪ねようとした矢先、養子の方が伝えに来てくださった。

震える文字で書かれた

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」

と、私の子供の頃のニックネーム、ちゃん付けで宛ててあった。

忙しい中、たくさんの方々と一期一会もあるなか、

どん底のしゃがんでしまった時があって、

確かに、

わたしも枝でした、と泣いた。

 

きれいで穏やかで

そんなふうに私も年を重ねられたらと思う。

ご主人と感染症に立ち向かって勝った歴史を持つその方の家は

当時、まだ感染症の記憶に怯える老人の間では

子どもが遊びに行ってはいけない家だったのだという。

出された飲み物のうしろに見えたたくさんの小瓶

 

母は翌日、すぐに謝りに行ったのだという。

この子は、よその家で遊んだことがない子で、

もう一度遊ばせていいですか、と頼んだという。

母親がいる強みからぶどうの木の下で思いきり遊んだから

葉の影やぶどうの実が顔に触れた重さや

木の根に転びそうになったこと、

匂いはコーラーの匂いのほうを覚えていて

コーラーの匂いを嗅ぐと、今でもぶどうの木を思い出す。

カテゴリー
タグ