- 投稿 2020/09/28
- 日記・コラム・つぶやき

今日は晴れる、という天気予想を見て、山歩きをしてきました。
筋肉量が落ちているのを嫌というほど自覚し、
それでも子供のために健康でいなくては、と無我夢中で歩いてきました。
昨日、衣替えや晴れない天気に乾燥機を求めて出かけた際
子どもがトイレに行きたくなったようで車からいなくなっていました。
目の前が真っ暗になり探しに出かけ、
本人はしっかり車へ戻ってきたのですが、
このまま行方不明になったら・・・
と、心臓が止まりそうでした。
緊張と探そうとする行動力と
何もかもが落ちていることに改めて気落ち。
捜している最中、
神様、お願いします、と祈りました。
そのあと、帰ってきたわが子と合流でき
神様なしでは恐ろしくて生きてこれなかった日々
生きていけないだろう日々を思いました。
今年起きたことを軽く見てはいけない、と改めて思います。
私が仕事で対峙した感染症との闘いは
帰国すれば専門家以外ほとんど知らないこと。
今は全世界が同じ条件でゼンマイ仕掛けに狂いが生じたように
じわじわと痛みが広がっています。
夜、子供をしっかり抱きしめて諭し
温かい食事を共にし、目をはなしてしまった油断を謝り
怖かったことを説明し、共に祈りました。
お母さんのために
お願いだからどこにも行かないで、寂しいだけでは済まないから、と
***
あずまやにたどり着いて
珈琲を飲んだ。
空が高く気持ちがいい。
一年ぶりのこの場所に
ああ、この感じ、と窓のない角の席
幼少期の記憶ではないか、とふと思った。
至聖所に入っていく親を待っていた空間
静寂
木の床
石の台座
子どもだけでは上り下りできない砂地
あそこへ追って入ることはできない。
獣もいただろうし、
悪党に囲まれたらひとたまりもない
なんとも明けっぴろげな空間
今日、あずまやで窓のない景色を見下ろして
天幕、これが原風景というのはなんて贅沢なんだ、と
有難く思った。
ネグレクト?
あなたは捨てて置かれたあの子だよね、と
言ってしまう大人もいた。
だが親だって人間。
体はひとつ
24時間の労働力にも制限がある。
祈りの空間に、
天幕に、その聖所に赤子がいて
神様が守らないはずはなかろう
親は落ちないでね、とたぶん額に手を置き
そっと離れて行ったのだろう
誰も子守りがいないのだから仕方ない。
***
自分が親になって改めて思う。
子どもを全部守ってあげることなど不可能、限界がある。
教育機関がありがたい。他者の援助がありがたい。
それでも及ばない域
神様の御手のなかで生きている
そういう信仰がなければ
昨日の状況を乗り越えるのは自分には無理
けして残してはいけないハンディのある子を抱きしめて
神様にすがり倒して明けた今日、
秋晴れの束の間
霊の呼吸を肺の隅々まで吸い込ませて頂きました。
十字架で張られた結界、恐れるものはなにもない
(ヨハネ4章24節)
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって
礼拝しなければなりません。