• 聖書
夕があり

 

こうして夕があり、朝があった。第一日目 (創世記1-5)

 

***

 

私には人生の記憶が二種類ある

 

洗礼を受けたいきさつは何度か書いてきましたが

before after できれいに分けられている

 

洗礼のあと、

「こうして夕があり、朝があった」

 

いきなり朝の体験がない

 

十字架刑は夕方完成したので

夕焼けで人が寂寥感に襲われる普遍は意味があるのだと思う

 

それに私は木材に落ち着いてしまうので

山小屋・海小屋・畑小屋のようなインテリアに惹かれてしまう

 

誰から強いられたわけでもないのに

十字架上のイエス様の姿やお顔の絵や映像を見ると

自分の息子・・・あるいは父親や

あるいは兄弟が・・・

苦しんでいる傍らにいる男性が

理不尽にも磔にされている光景に見えてきて

胸が痛み涙があふれる

 

見上げていたマリアを初めヨハネや女たちの痛みが自分に重なる

今もこの時も

ゴルゴタの丘の十字架刑は自分と無関係なものではない

と、はっきり何のことよりもリアリティとして迫ってくる

 

神が人となって十字架にかかり

死んで三日目に蘇られた

 

こうして夕があり、朝があった

 

***

 

 

このことを

わが身のこととして刻まれたことをなによりだと思う

そうでなければ

自分の肉体の朽ちる時もそうだろうが

 

自分が生んだ子供たちの生きている全てを

守れるはずもない自分の非力さにいつまでもオタオタしていたと思う

 

この世の君を制し黄泉にまで下り、アビスに閉じ込め

天に帰られた神

 

天と地とを結ぶ

恐れなくても良い

わたしを通れ

わたしが道である

 

と十字架を示して下さった

 

人の体の痛みを表す医学用語でもある、閾値

不思議だが、有るか無いかである。

 

痛みの波は5だろうが3であろうが

有るか無いかである。

 

鳥居をくぐった瞬間の行為を語源としているというから

日本語は凄い

 

夕がわかるか

朝がわかるか

 

神は今もなお道を示し続けている

私はもうくぐった。

 

 

有るか無いかでいえば、無い

***

 

夕焼けが美しい

けれど寂しい

 

人は神様を十字架にかけてしまったのだから

 

彼らは何をしているのかわからないのです

父よ、彼らをお許しください

 

イエス様はそう語って

全人類のための罪の贖いとなられました

これが救い、メシアの意味だと聖書にあります

 

  

 

 

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