立ち止まってしまうと、しんどい

 

何をしても前に進まない

 

体を健康にしようとジムの体験へ行くもやはりムリ

温泉に行くも帰宅してグッタリ・・・

 

キッチンにタイルを貼ってみたりとリノベしてみたけれど心躍らず

ただただ子供たちの心配ばかりしている

 

いやあ・・・残酷な時代だ。

 

***

 

医療とまったく無縁の世界にいたら

別の感覚でやはり心配していたのかもしれない

 

クリスチャンの先輩から

あなたはイエス様のことはよく語るけれど

御父についての知識はあるのか、と問われた。

 

不思議なことを聞くものだと

その時は思ったが、

黙示録について無知なのではないか、という

諭しがあったのだろうと、今頃気づいた次第

 

***

 

子どものことをただただ心配している気配が

バレバレなのだろうと思う。

 

突き抜けていない、ということなのだろう。

 

洗礼を受けた直後の突き抜けた感覚を

このコロナ禍で見失ったのか、と責めて言われたようにも思う。

 

聖書では

神を一番とせよ、と語られている。

 

何故なら

「恐れ」

という言葉がもっとも多いことばとして語られており

大抵の親なら

自分の身に起きる不幸よりも

子の安全を案ずることの方が大事であり、

自分の身に起きることへの不安より

全ての面で子を助けることは不可能と知っている

ことから起きる不安の方が大きい。

 

私と連絡を取ることだけはやめない、と

 

子どもたちと約束してきたが

この非常時に

心配かけたくないと距離を置かれてしまった。

 

***

 

罠だな、と思う。

 

私の心の中にある一番ひっかかりやすい罠

 

寝ても覚めても頭の中は子どもたちの事ばかり

 

温泉もリノベも筋トレも束の間、無にしてくれるが

罠を片付けてくれる力がない。

 

これまでの歳月が神様の温情なら

ここから先は大人になった証しとして

自分が落ちた穴から引き揚げられた当時を思い出し

 

初めの愛に戻り

何故、救いの恩恵に預かったのかを感じてみようと思う。

 

神職を避けるということが、

神様から逃げるということなら、逃げない。

神様から逃げる、という人生こそ恐ろしいではないか、

 

引き継ぐ前に

体を壊して死にそうになった私の前に現れたのが十字架の主

救急室で十字架を知った。

 

「あなたにはできない、わたしがした。

あなたにはできない」

 

別の人が継ぎ

私と子供たちは洗礼を受けた。

そのあと、子どもたちは飛躍的に幸せの道へ連れて行かれた

それが神様が私を救ったというなによりの証拠。

子どもたちが幸せ、

それが私の生きる価値

 

天の神を語らない、よねと数日前の電話の声

 

その言葉に

体を壊すほど対峙した当時へ一瞬にして引き戻された。

 

あなたはね、神に追われている女、

その当時、取材していた著名な作家に言われた。

 

恐ろしいことばを簡単に吐くもんだ、と

葛藤の中で苦しんでいた私は、物書きが嫌いになった。

 

だが

一歩も前へ進めない地団駄のこの数日、

臆病者、と指さされていたような当時と同じ感がぬぐえないのは何だろう

 

このような閉塞感から解放したのがイエス様だった。

 

今も書くことで

心の中に温かいものが湧いてきたから不思議だ。

 

この方の名は不思議ともいうと聖書にある。

 

私はあなたから逃げる道を選んだのではない

役立たずでいることを望んではいない。

 

そのことを呻いている

子どもたちから、あなたはあなたの役割を果たして下さい

と声なき声を届けられているようにも感じてきたから

書くことも話すことも、

ことばは、やはり力

 

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