投稿者:拝原 しげる

通常の生活が戻ってきました。

 

2月26日から5月26日まで、ちょうど三ヶ月ステイホーム。

 

出勤前に体温測定とSPO2モニターで酸素飽和度を測定、

マスクに帰宅後シャワー、と手間がかかることが多くなり

暑さに脱水予防に

これからの梅雨、台風・・・

 

予防対策に追われて、生きることって大変な労力を使っていたんだな

と改めて、思います。

 

無我夢中で一度目を乗り切ったような少し疲れた心に

にわかベランダガーデンが癒しになりました。

 

***

 

ブログ使用の期限が切れても予防のためホテル生活の家人には頼れず

記事も写真も消えていた当ブログ、

訪問下さった方、誠にありがとうございました。

 

少しでもお役に立てる記事を書けるようまた頑張りたいと思います。

 

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

帰宅したらシャワー

午後12時から14時までの間に太陽にあたりながら集中して仕事をこなす。

 

自衛官の方々がクルーズ船での任務を果たされ

誰一人陽性者が出なかったことから

感染予防策を教えてほしいとの声が多いという。

 

医療従事者もほぼ同じような意識下で

自身の健康を維持することはもちろん他者を救うため働いている。

 

これは聖書でもきちんと語られている。

 

水浴のあとに油を塗ることも書かれており、

感染確認や隔離の方法も書かれている。

 

自分が生まれるずうと前のことだと思うと

改めて、凄いことだと思います。

 

***

 

今日は日曜日、

子供と二人で祈りました。

 

ヨハネの福音書12章、13章、14章

イエス様が弟子の足を洗う場面があります。

 

どこにも矛盾がなく、隠されてもおらず、

あまりの迫力にボロボロと泣きながら読み上げていました。

 

女のすえが蛇の頭を砕く

そのことをする前のことです。

 

ナルドの香油

ユダの裏切り、悪魔が彼の中へ入る

スープに浸したパンをイエス様はユダへ食べさせる。

 

おまえが思っていることをすぐにしなさい、と語る。

 

七つの血潮の意味を書きだそうとしたら、今日はここでした。

 

全てに完璧な順序があり、誰にも隠されていないのに

わからない人もいる、ことも書かれている。

 

私など40代までまったく知りませんでした。

 

挫折の機会もあわやのこともことごとく波乱万丈のやり方で過ごし

子どもたちを巻き込み、貴重な時間をたくさん失わせ、

人生というものの恐ろしさを痛感している。

 

悔い

 

本当のどん底は、自力で得られるものではない、と今でもぞっとする。

 

だから今この時、必死に書こうとしているように思います。

 

正直、なにも晒してまで書く必要はないのかもしれない。

 

ただイエス様さえもあかしされ、

という箇所があり、

それならば、足を洗われた子だと自覚するならば

親の背中を追うというもの。

 

***

 

臨終の極みで生還した所は同じ場所だったかもしれない。

 

霊にあって生まれ変わったという不思議な経験が足された

足されたというが、半人前を補う一人前になるために

神の子の血潮が流された意味を同時に、瞬時に悟らされた。

 

歳月はあっという間に流れた。

 

***

 

半人前だと言い訳のできた

それまでの盲目的な生き方のツケをどう償えばいいのかも考える猶予もなく

次々と助けて下さる先生や友人に恵まれ出会った。

 

振り返ると、すべてが奇跡である。

 

神の山に備えあり、と書かれている。

 

出会いも神の備えであると書かれている。

 

***

 

家族は連なるように全員洗礼を受けた。

 

それぞれのビフォーアフターは

親の失態をことごとくカバーしてあまりある神の恩恵ばかりであった。

 

一人ひとりが今離れて前線で戦っている。

 

戦える人にまで成長させられた日々は、ただただ神のことばへ

生身の言葉が置換されていったプロセスと光景。

 

自分たちの力ではムリなことばかりの跡を見ている。

 

「足を洗わせてください」

 

祈りは公的なもの

 

八  イエス・キリスト

ム ,カンマ・神

そこへ足すことも引くこともない、祈りの戦いが始まりました。

 

登る山はひとつ。

 

方向は各々違うルートかもしれません。

 

祈りてを集めるのも神、成すのも神。

 

カテゴリー
タグ
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。

私はそれであなたのおきてを学びました。

       (詩編119章ー71)

 

救急室のベットで呼吸の限界の恐怖で凍り付いた時のことを

まだ自立していない子どもたちを置いて息が終わることの恐怖を今でも覚えている。

 

「だれか助けてください。誰か私を助けてください」

 

聖書を読んだことのない、教会へ行く機会もなかった私は本当に助けられた。

 

主治医は優秀で

全力で

遅くまで帰らずに椅子から転げ落ちそうになり寝落ちしていたのも覚えている。

 

子どもたち一人ひとりの表情も覚えている。

 

生き抜く力を背中で示すはずの親が

まったく見本になれないヘタレの極み。

 

もう何の手立てもなく

余力もなく

この子らへの責任を果たさせてください。

 

吐けない息のはざまで懇願した。

 

先生のたった一人の患者の前で全力投球する神業はもう申し訳ない。

 

子だくさんで家へ帰してあげたいし、

外来患者は列をつくる超人気ドクター、明日も外来があるし、

時間はいくらあっても足りない逸材だと十分理解しているし、

 

それなのに

先生の全力を私はもう使うのが怖い・・・

 

生身の人には限界があるのは自分も知っている。

 

もう誰か、誰か、誰か助けて、先生も助けて下さい。

 

「誰か助けてください。誰か私を助けてください」

 

渇ききった呼吸を諦めた刹那

「あなたにはできない。わたしがした。あなたにはできない」

 

***

 

十字架を見てしまったのです。

 

ああ、神様だとすうと意識がそのあと遠のきました。

 

どれだけわたしがあがいても

先生がどれだけ優秀で全力を捧げても

子どもたちがどれだけどん底に落とされ生活困窮者の道を辿ろうとも

もう意識はなくなりました。

 

「死」

 

いのちの極限から蘇ったあと、

主治医の先生へ子供たちへ長い歳月をかけて、

あの時の意味をこうして書かせて頂いております。

 

子どもたちは読んでいない記事ですが

恩人の先生へはご案内させて頂いており

当時、このような説明ができるわけもなく

歳月がたって、この時に読んでいただいている「時」を感謝しています。

 

***

 

「あなたが負けたらわたしたちも負けた気がする」

「僕もおんなじだよ」

 

***

 s

どこかへ属する宗教とも違う。

 

経験したことを、聖書で、説き明かされる日々をそのあと過ごし

今があります。

 

ひとり私のふところに残されたハンディのある子が、自粛生活の続く中

「馬がにほん、あるね」

と換気するために大きく開けた窓際で二人でソファにくつろいでいると、

空を見ながらポツンと言った。

 

日本?

ちがう2本

馬が2本?

なんというのかわからないけれど、

と、一本は子供は故郷の名前をいい、

一本はここにあるのだと言う。

 

ここってここ?

と聞くと、東京と言う。

 

***

 

にこにこと笑いながらプーさんを抱っこして寝室へいった。

 

寝た後に記事を書いている。

 

とても不思議である。

 

聖書を自力で読むことがこの子はできない。

 

ただ昼間のテレワークの電話のあと

「かわいそうだ」

と真顔で他者のことを心配している顔はとてもハンディのある子には見えない。

 

三、四と続く予定の記事を今日は逸れて

忘れないように書き残しています。

 

写真はほとんどこの子が撮ったものですが、

この写真もCCUから一般病棟へ移った日に子供が中庭で撮った写真です。

 

今日も祈ります。

 

カテゴリー
タグ
  • 祈り
血潮が流された 2カ所目

67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、

   また、他の者たちは、イエスを平手で打って、

68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」 

          (マタイ26章)

 

イエス様がオリーブ山で血の汗を流して祈られた時、「思い」は、

罪のない贖いの子羊へいよいよ人の罪が転写されていきます。

 

レビ記のなかで、傷のない贖いの動物へ大祭司が手を置きます。

 

そして自身の人間という罪を転写し、

祈りの至聖所へ向かっていきますが、

罪が残っていると死にます。

 

ふさについていた鈴が鳴ると、急いでその祭司を引き出し、

次がまた新しい傷のない罪の贖いのための動物へ手を置き祈り

入っていくのです。

 

***

 

イエス様は、その犠牲の子羊としての役割を始められました。

 

同時に覚えてほしいのは

この方は大祭司としてのお役目を果たしていくということです。

 

ナザレのイエス様は罪がありません。

 

聖霊によって女のすえとしてお生まれになった方が蛇の頭を砕くという

聖書の言葉通り、処女マリアによってお生まれになったことは

大抵の方が知っていると思います。

 

私たちは男のすえです。

 

精子によって生まれた正真正銘の人間同士の受精卵のすえ。

 

***

 

ヨセフというマリアの許嫁が育ての父親ということに人の考えは及んでいきますが

イエス様の系図はダビデ王の系図、ヨセフの家系図が辿られます。

 

書いていても鳥肌が立っていきます。

 

壮大な神様の業、繊細な組み合わせ、すべて摂理があり、

どこにも矛盾がありません。

 

ことばですべて説明されて聖書におさめられています。

 

***

 

大祭司であることも

罪のない贖いの子羊として人類の罪を贖うことも

 

***

 

人は人類初のアダムによって罪が入りました。

 

どんなに聖人君子の人であっても自分が十字架にかかる

私が負う

と名乗り出ても、人には大祭司の罪を取り除くことはできません。

 

神は永遠のいのちという新創造へ、人を移して下さろうとしています。

 

そこは聖なるところ

闇は光に勝てませんから

気持ちで存在できるところではないのです。

 

イエス様のお名前は数字では888

 

ねじった丸がふたつに見えます。

 

狭い道を通って上の丸へ移行させる。

 

狭い道が、「わたしが道だ」という道です。

 

イエス様のお体しか罪の転写をみることができない。

 

ウイルスや菌が手洗いで消えずに残って顔や他者へと広がっていく

のがブラックライトでわかる液体がありますが、それを想像してみてください。

 

と人の罪が転写されました。

 

これが名乗り出た普通の人だともともとあるので、はっきりと区別がつかず

ただカオスです。

 

ナザレのイエス様ご自身がご自身の上に手を置く

2人を証しの数、というのは書いた記憶があるので

 

***

 

7つは完成・成就の意味

2カ所目、顔をこぶしで殴られたら血が流れます。

 

顔は、プライド、恥を象徴します。

 

顔が殴られ人類への贖いの代価である血が流れました。

 

「死と復活」

 

十字架に預かる者のプライドや恥は人の中にあって死に渡され、神の聖なる領域、すなわち永遠の命の領域で復活する。

 

死んで三日目に蘇られたイエス様は

黄泉にまで下り、天に上られ

御父はその流された血のあとを見て満足されたとなる、プロセスが、

二カ所目を通りました。

 

カテゴリー
タグ