カテゴリー:祈り
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    祈り

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自分のいのちを失った者

37 わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

39 じぶんのいのちを自分のものとした者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

 

       (マタイ10章)

 

自分から指を手を離すことができない人間各自の愛着を

どうあがいて処理しようにも無理がある。

 

人の脳にはそれを記憶する場所があり、

それがあるゆえに

十字架上の神の成した業があり、復活というプロセスがある。

 

神を愛するゆえに

悟った、と子を手放すような者を神は喜ぶだろうか。

 

***

 

神の奥義は

「わたしがした。あなたにはできない。わたしがした。わたしに帰れ」

である。

 

人間にはできないことをした、

それが信仰のもといである。

 

人にできるなら神を知る機会はない。

 

神は存在の根源である。

 

***

 

十字架上の形は無力の極みである。

「死」である。

 

それも神の子の

「死」である。

 

それを信じて、ただ信じて

神の子の「死」に渡した先に起きたことを信じて

初穂のあとに繋がっていける道、

それが今の時代に生きる恩恵だと思う。

 

「死」

の先、

十字架の先を知るのは、当時、神のみ。

 

私たちひとり一つの身を持つ今も

目を閉じて実際、自身の「死」をその身に帯びなければ

見たことではないから、正直、わからない。

 

***

 

信じて目を閉じる。

 

猛者でも人にはできない。

 

先に実践し、見せて下さった方の神に対する絶対な一致、信仰。

 

それを超えることは、誰もひとはできない。

 

多くの方々の臨終の時、立ち会った時、

医療従事者冥利に尽きる瞬間がある。

 

誰もが極みで安堵の表情を見せるのが、とても腑に落ちる。

 

この地上で最愛の人に見せただろう表情とも違う

一番安心する人に見せる顔とも違う。

 

赤ん坊が泣きながら生まれるなら、

人は最後、誰かの顔に迎えられて逝くのだと思った。

 

神の御顔を見たのだろうな、と何度も畏れに畏れた。

 

***

 

神の御顔を見たらみな死ぬのだと書いてある。

 

生きている間、ことばに在って、霊に在って、生かされてきた。

 

目を閉じた時、

ことばは終わるのだ。

 

人の霊は天に上り、獣の霊は地に下る。

 

天は、神のおられる確かな所

幼い時からいつのまにか知っていること

 

***

 

祭司だった親を看取った夜、

「怖いねえ」

と息の合間に言うのを聞いて、

生き死にが怖いのではない、というのを悟った。

 

その時だ

子をゆだねるしかない先はそこにある、と悟った。

 

神を知る、ということは何よりの親孝行だと思った。

 

本当の心配事を親に課さないからだと、

今なら不思議なこの順序に、神の深淵に感謝するばかり。

 

子らが親孝行だということに今さらながら頭が下がる。

 

私は悔いなく、目を閉じてよいのだと頭が下がる。

 

子らのことを云々、祈り続けるずうと先にまで伸びてある御手、

神の恩寵

ただ恵みである。

 

愚かな母親に伸びた神の御手、恩寵である。

 

***

 

弱い人は幸いである。

 

死の極みに強い人など存在しない。

 

神は光にそっと私たちを移そうと今も見ている。

 

神はわたしたちの親

誰も滅んでほしくない

光へ、移そうと

繊細に、各自に合わせて、御手を伸ばしておられる。

 

神は愛。

 

永遠のいのちである。

 

そこへ抱き込められている感覚、それが私の信仰である。

 

 

 

 

 

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新しい生活スタイル

感染予防をしながらの生活はいちいち手間がかかります。

 

暑い気温の中、建築現場で働いている方々を見ていると本当に胸が痛みます。

 

どの職業もピンチ、

どの年代もピンチ、

越せるかな、夏、

耐えられるか、次の波。

 

頑張れ、というさだまさしさんの歌声を子供の横で聞いていて

涙がぽろぽろとこぼれてしまいました。

 

***

 

昨夜、寝る前に、

洗礼後の自分の人生の経過を思い出し、

なんと悔いの多いことよ、

あの時のあそこへ戻りたい、という後悔が一気に湧き上がってきた。

 

洗礼を受けていなかったら、たぶん乗り越えきれなかっただろうとぞっとした。

 

***

 

どんなに自分が生まれ変わったとしても私は人間

体も限界が必ずくる、それに伴い弱さも生じる。

 

そんな自分が、とりなして祈る人?

 

いいのかな、思い込んでいるけれど、軸は大丈夫?

 

***

 

十字架上で死を成就し、黄泉にまで下り、踵で蓋をし、

9となり天の父の右の座に着かれた方、

その方は8+1というこの方があって初めて私たちの

中で奇跡を知らしめる、三位一体の一位格、

聖霊なる神が、みことばにあって内にもおり働くことを示して下さった。

***

初穂となったのだ。

神は聖、真っ白、どこにも影のない聖い白

私には黒がある。

誰彼から見たら、ただ真っ黒にしか見えない部分もある。

 

嫌だ、この人,とけして高潔ではない。

 

***

 

陰に皇極があり、

陽に皇極がある。

 

織りなす模様はチクチクと痛い。

 

神様の聖が織り込まれるのだから、痛い。

 

陰の罪ある人の中におかれた聖霊。

 

天から下ってこられた罪のない方、陽の中へ人の体という

限りの中へ皇極は8として十字架へかかり

全人類の罪を贖うという、陰陽で〇、天地を繋いだ。

 

8の繋ぎは狭い門、

だが通れば〇

地に居ながら天にいる、この不思議。

 

過去をも踏みなおす主、

聖書の奥義は痛み、渇きに即応えよう、とスタンバイしておられます。

 

信仰は自由意志。

 

無理に心の扉を開けない。

 

ドアノブは外側ではなく、自身の内側にあるというこれもまた不思議な摂理。

 

嫁取り物語。

 

愛しい人ほど無理強いはしない、

大切な花嫁。

 

あなたのお嫁さんになりたいです、

と応答する時がドアノブが開くとき、

 

***

 

嫁にいきたいと思う時はそれぞれだと思う。

 

愛しくてたまらないと完結した時、

そんな甘いものじゃない・・・

 

助けて下さい、と命乞いをした時かもしれない。

 

奇跡に高揚した時かもしれない。

 

人にはそれぞれ個人のその時があるのだと思うと

神の造られた人への尊厳を心からありがたいと思います。

 

 

 

 

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帰宅したらシャワー

午後12時から14時までの間に太陽にあたりながら集中して仕事をこなす。

 

自衛官の方々がクルーズ船での任務を果たされ

誰一人陽性者が出なかったことから

感染予防策を教えてほしいとの声が多いという。

 

医療従事者もほぼ同じような意識下で

自身の健康を維持することはもちろん他者を救うため働いている。

 

これは聖書でもきちんと語られている。

 

水浴のあとに油を塗ることも書かれており、

感染確認や隔離の方法も書かれている。

 

自分が生まれるずうと前のことだと思うと

改めて、凄いことだと思います。

 

***

 

今日は日曜日、

子供と二人で祈りました。

 

ヨハネの福音書12章、13章、14章

イエス様が弟子の足を洗う場面があります。

 

どこにも矛盾がなく、隠されてもおらず、

あまりの迫力にボロボロと泣きながら読み上げていました。

 

女のすえが蛇の頭を砕く

そのことをする前のことです。

 

ナルドの香油

ユダの裏切り、悪魔が彼の中へ入る

スープに浸したパンをイエス様はユダへ食べさせる。

 

おまえが思っていることをすぐにしなさい、と語る。

 

七つの血潮の意味を書きだそうとしたら、今日はここでした。

 

全てに完璧な順序があり、誰にも隠されていないのに

わからない人もいる、ことも書かれている。

 

私など40代までまったく知りませんでした。

 

挫折の機会もあわやのこともことごとく波乱万丈のやり方で過ごし

子どもたちを巻き込み、貴重な時間をたくさん失わせ、

人生というものの恐ろしさを痛感している。

 

悔い

 

本当のどん底は、自力で得られるものではない、と今でもぞっとする。

 

だから今この時、必死に書こうとしているように思います。

 

正直、なにも晒してまで書く必要はないのかもしれない。

 

ただイエス様さえもあかしされ、

という箇所があり、

それならば、足を洗われた子だと自覚するならば

親の背中を追うというもの。

 

***

 

臨終の極みで生還した所は同じ場所だったかもしれない。

 

霊にあって生まれ変わったという不思議な経験が足された

足されたというが、半人前を補う一人前になるために

神の子の血潮が流された意味を同時に、瞬時に悟らされた。

 

歳月はあっという間に流れた。

 

***

 

半人前だと言い訳のできた

それまでの盲目的な生き方のツケをどう償えばいいのかも考える猶予もなく

次々と助けて下さる先生や友人に恵まれ出会った。

 

振り返ると、すべてが奇跡である。

 

神の山に備えあり、と書かれている。

 

出会いも神の備えであると書かれている。

 

***

 

家族は連なるように全員洗礼を受けた。

 

それぞれのビフォーアフターは

親の失態をことごとくカバーしてあまりある神の恩恵ばかりであった。

 

一人ひとりが今離れて前線で戦っている。

 

戦える人にまで成長させられた日々は、ただただ神のことばへ

生身の言葉が置換されていったプロセスと光景。

 

自分たちの力ではムリなことばかりの跡を見ている。

 

「足を洗わせてください」

 

祈りは公的なもの

 

八  イエス・キリスト

ム ,カンマ・神

そこへ足すことも引くこともない、祈りの戦いが始まりました。

 

登る山はひとつ。

 

方向は各々違うルートかもしれません。

 

祈りてを集めるのも神、成すのも神。

 

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苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。

私はそれであなたのおきてを学びました。

       (詩編119章ー71)

 

救急室のベットで呼吸の限界の恐怖で凍り付いた時のことを

まだ自立していない子どもたちを置いて息が終わることの恐怖を今でも覚えている。

 

「だれか助けてください。誰か私を助けてください」

 

聖書を読んだことのない、教会へ行く機会もなかった私は本当に助けられた。

 

主治医は優秀で

全力で

遅くまで帰らずに椅子から転げ落ちそうになり寝落ちしていたのも覚えている。

 

子どもたち一人ひとりの表情も覚えている。

 

生き抜く力を背中で示すはずの親が

まったく見本になれないヘタレの極み。

 

もう何の手立てもなく

余力もなく

この子らへの責任を果たさせてください。

 

吐けない息のはざまで懇願した。

 

先生のたった一人の患者の前で全力投球する神業はもう申し訳ない。

 

子だくさんで家へ帰してあげたいし、

外来患者は列をつくる超人気ドクター、明日も外来があるし、

時間はいくらあっても足りない逸材だと十分理解しているし、

 

それなのに

先生の全力を私はもう使うのが怖い・・・

 

生身の人には限界があるのは自分も知っている。

 

もう誰か、誰か、誰か助けて、先生も助けて下さい。

 

「誰か助けてください。誰か私を助けてください」

 

渇ききった呼吸を諦めた刹那

「あなたにはできない。わたしがした。あなたにはできない」

 

***

 

十字架を見てしまったのです。

 

ああ、神様だとすうと意識がそのあと遠のきました。

 

どれだけわたしがあがいても

先生がどれだけ優秀で全力を捧げても

子どもたちがどれだけどん底に落とされ生活困窮者の道を辿ろうとも

もう意識はなくなりました。

 

「死」

 

いのちの極限から蘇ったあと、

主治医の先生へ子供たちへ長い歳月をかけて、

あの時の意味をこうして書かせて頂いております。

 

子どもたちは読んでいない記事ですが

恩人の先生へはご案内させて頂いており

当時、このような説明ができるわけもなく

歳月がたって、この時に読んでいただいている「時」を感謝しています。

 

***

 

「あなたが負けたらわたしたちも負けた気がする」

「僕もおんなじだよ」

 

***

 s

どこかへ属する宗教とも違う。

 

経験したことを、聖書で、説き明かされる日々をそのあと過ごし

今があります。

 

ひとり私のふところに残されたハンディのある子が、自粛生活の続く中

「馬がにほん、あるね」

と換気するために大きく開けた窓際で二人でソファにくつろいでいると、

空を見ながらポツンと言った。

 

日本?

ちがう2本

馬が2本?

なんというのかわからないけれど、

と、一本は子供は故郷の名前をいい、

一本はここにあるのだと言う。

 

ここってここ?

と聞くと、東京と言う。

 

***

 

にこにこと笑いながらプーさんを抱っこして寝室へいった。

 

寝た後に記事を書いている。

 

とても不思議である。

 

聖書を自力で読むことがこの子はできない。

 

ただ昼間のテレワークの電話のあと

「かわいそうだ」

と真顔で他者のことを心配している顔はとてもハンディのある子には見えない。

 

三、四と続く予定の記事を今日は逸れて

忘れないように書き残しています。

 

写真はほとんどこの子が撮ったものですが、

この写真もCCUから一般病棟へ移った日に子供が中庭で撮った写真です。

 

今日も祈ります。

 

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