「微小血管狭心症」 待ち望んでいた救世主にたどり着いた

 

 

16年前、

根雪の残る東京へ友人を迎えに行きました。

48歳の親友は皮膚癌で仕事を休職し、最後に学生時代を過ごした東京で弾けるようになりたいと夢見ていたチェロ教室へ妹さんの家を拠点に通い、都会の空気感の中で無我夢中な時間を、と

緩和ケア病棟に勤務する私に電話をかけてきたのは妹さんでした。

 

 

半そでで過ごせる南国から急遽東京の友人が入院した病院へ向かいました。

夜中に着いたホテルで寒さのレベルが違うと思ったものの、翌日は娘の婚約者がホテルでモーニングを一緒にと初めてのご対面。

 

友人を飛行機に搭乗させる際、医師同伴が求められるだろうと想定し問い合わせると、医学生でも可能とのこと、国試前の婿殿に頼んだら快く引き受けてくれた。初めて会う婿殿、食事の後、二人で雪道を歩きながら友人の病院へ。

友人はすぐに飛行機は辛いというので、一足先に私は入院のベッド調整を頼むべく戻り、

そんな日の三日後でした。

 

 

フォーリー留置がままならない患者様の処置に同一体位で挑戦している時でした。

背中がドンと重いものを乗せられたようになり、首が絞められているような息苦しさが突然襲ってきました。

何? と、すぐにナースコールを押し、処置を代わってもらい、

医師の当直室横にあった十二誘導の心電図を必死に自分で貼ってははがれては、で不完全ながらもなんとかデーターを取り、それを持って翌日病院を受診しました。

様子をみましょう、とその日は帰りました。

 

 

一週間後、友人も移動が無事に叶い、

緩和ケア病棟で次々と見舞いに来てくれる職場の仲間や同級生たちに励まされ、また面倒見のいい友人が辛さを押して逆に彼らを励ましたり、私も勤務中、毎回話ができることに感謝して、会話の仲間にも入れて頂いたりした。

友人は多くの方々の愛に包まれ、最後はありがとう、ありがとう、と穏やかな優しい顔で天国へ旅立っていかれました。

 

離島で行われる友人の葬儀に参列するため、飛行機には乗ったものの、私は気づけば何故だか葬儀には参列せず、日帰りで本島行きの飛行機に乗っていました。最後を託してくれた友人への思いが溢れて、行きも帰りも機内で私は泣くに泣いていました。

 

 

辛さが取れない数日後、娘の結納の日の当日、

婿殿のご両親が東京から来島。緊張しながらもありがたい時間に追われました。

 

ささやかな結納が無事終わり、ほっとした日の夜、

PCに向かい、まとめをしようかと呼吸を整えた瞬間、

ドンと背中がまたブロックに挟まったようになり、今度は胸が痛い、苦しい、とシャワールームとトイレに駆け込んだら、便失禁が止まらない。

 

 

シャワーの音で気づかない家人にようやく気づいてもらい、

洗濯籠にあった白衣のポケットに亡くなられた患者様のニトログリセリンを処分せずに持ち帰っていたことを思い出し、それを舌下した。

しばらくして着替えができるようになり、病院へ。

心臓カテーテル検査などを目的とした精査入院を翌日再受診したあと行いました。

 

これが16年前の私の胸痛発作のエピソードです。

 

そして本日、動画を貼らせて頂いております、専門医の清岡嵩彦先生の二度目の受診を終えて帰宅したところです。

 

 

初回診察からこの二週間、

放心したような日々でした。

 

「あなたに心臓の病気はありません」

「不安神経症です」

「自律神経失調症ですね」

「更年期障害です」

「ナーバスな女性」

「作家脳?」

「心電図、見ます? 血液データーもどうぞ」

 

早朝、まだ薄暗い空き家で胸痛発作に起こされる。

病院も遠い。

子供はハンディキャップがあって救急車が到着しても、鍵を開けてくれないだろう。

夜中に、助けて! と誰かに電話をかける逞しさは自分にはない。

 

思い切って駆け込んだERでも、ニトロ持っているのに何故来たの?  と言われるだけ。

 

16年間、ナーバスな女性を演じ続け、お笑いキャラで何かをごまかしたり、ストレスを受けまいと、要職を手放したり、

ヒット作品となった原作を、原作者なし、に応じたり・・・

 

最初に、「微小血管狭心症」 を知ったのは、天野恵子先生(清風荘病院)の、ビートたけしさんの「本当は怖い家庭の医学」を観た方の紹介で、天野先生の外来を受診した時に診断していただきました。

 

病院が家から遠いため、薬を近医でいただこうと受診するも、

「病気ではない」

の厳しい現実。

そういう間にもニトロを使う発作に苦しむ日々。

いちばん多かったのが心療内科をすすめられたこと。

 

そうこうしている間に埼玉へも行かなくなり、二拠点生活で寒さ、ヒートショックをまず避けよう、と自分で管理していく、死ぬときは死ぬんだから、と、痛みの孤独に腹を括り

東京と南国の二拠点生活へ

 

そして今年の6月、南国へ発つ前のこと、

何気なく家事のついでに観たTVで、NHKで、「微小血管狭心症」 をテーマにドクターが解説しているのを見て、えっ? 存在する病気なの?

調べるゆとりもなく、TVやネット環境のない南国へ

 

南国拠点の目的の一つは、

 

不安神経症だろうとナーバスな女性だろうと作家脳のなせる大げさな痛がりようであろうと、患者が来院して訴えているのだからと、丁寧に診て下さる神ドクターに出会ったのが背中を押すきっかけとなっていました。

 

そして東京でも、根気よくいきましょう、と支えていただき、「疲れた? 休みたい?」と深夜の発作の恐怖に打ちのめされ、縋るように来院したくたくたの患者に助けの手をすうと差し伸べて入院させて下さった女性の神ドクターとも出会い、

 

そうこうしている間に年もとっていくし・・・ありがたい、休みたい、と

 

医療業界で働いていたとはいえ、自分に関する医療知識を自分で探求するのは、「病気はない」 と大半のドクターに言われてきた数年ですでに頓挫している。ドキドキしてくるだけのリスクだけだった16年間

 

そして、今年の6月から10月までの南国滞在、

私って死ぬの?

そう思わされるほど、会いたかった人に会い、課題だったことが片付き、奇跡的なサポートのリレーで東京に戻ってきた。

 

南国拠点の際の主治医の先生が台風のさなか飛行機に乗って書いて下さった紹介状が間に合ったのです。

諦めていた受診が叶い、この道のパイオニア、専門医の清岡先生に本日、二度目の診察が叶いました。

 

改めて診断していただき、

落ち込むべき病気あり、の状況なのに、感謝が深すぎてまだ放心しているのです。

 

孤独な発作の夜、つい先月まで味わっていた恐怖の夜の孤独感、理解してもらえない自分だけの恐怖はもう終わったのです。

 

ニトロを舌下したあと、障害のある娘が私の胸や腕をさすりながら、ポロポロと涙をこぼし、「母ちゃん。大丈夫、わたしがいるから」と励ましてくれたこと

 

痛みの先が読めない

二度目のニトロ使用の後の血圧が下がって、べつの恐怖に打ちのめされる瞬間

死ぬって楽じゃないなあ

この子を残して逝くのか、わたし

 

神様、助けてください。

何度、祈っただろうか。

何度、呻いただろうか。

 

10月19日、初診で、

私は、16年間の恐怖から解放されました。

 

 

まだ夢の中にいるようで、ふわふわとしています。

研究に励んでこられた清岡先生はじめ関係者の先生方に心から感謝しております。

 

生きてる間に診ていただいた奇跡

書くことを仕事にできるぎりぎり年齢

少しでも役に立ちたいと急ぎ書きました。

 

女性が7割というこの疾患

 

うつ?

冷え性だから?

更年期?

波乱万丈すぎる? ストレス強め?

 

女性の皆様

専門医がおられます。

 

ラッキーな時代です。

悩まないで下さい。

諦めないでください。

 

 

症状を専門医に相談し、加療して頂き、一病息災、

生産性を著しく落としてしまう人生を選んではいけません。

専門医の伴走があれば、思い切り生き切ればよいのです。

怖くはありません。

伴走がないから怖いのです。

ありがたい時代がきました。

 

一生はいちどきり。

16年の反省からお若い方々へエールになれば、と急ぎの長文ですみません。

 

 

 

幼なじみに会いました

 

今日は短い時間でしたが、久しぶりの珈琲タイムを街中のおしゃれなカフェで過ごすことができました。

 

昨日、30数年ぶりに超秀才だった幼なじみと再会し、

あまりにも優しい声や表情が菩薩様というのはこんな感じ? と思ったほどです。

 

私のマシンガントークを笑いながら頷きながら聞き通してくれて、

悟った人の持つであろう神々しさを子供のころから幼馴染の彼女に感じてはいたが、

長じて

 

いやあ・・・

自分の凡人ぶりに、改めて、

ああ・・・人って・・・こんなにも違うものなのか、と

 

こんな素敵な人が生まれて最初の友人として与えられた

稀有な、本当に自分は恵まれていたんだなあ、といろいろなことが脳内を巡り、

感謝。

 

私の巻いて巻いて勝手に語りつくすこれまでの話を微笑んで全部聞いていた。

 

いないよ、そういう人。

初めてだよ、そういう人。

 

不思議そうに質問していたのは、東京に住んでいてどうしてその語り口なのか、訛り?

話術? 取れてないだけ? 何故? ただその一点だけを何度も解こうとしていた。

 

そうです。

わが幼馴染はまだ全国模試が珍しかった頃、始まったばかりだったのかもしれない。

塾も予備校も家庭教師もいない、片田舎の学校から受けて全国1位を獲った超秀才なのです。ほぼ満点だったと聞いた。

 

もう一つ

私のマシンガントークに、秀才脳が ?

 

高校の夏休み、

親の押し付けてくる進路から逃げようと思い、あなたのノートを借りに行ったところね、

「うん」

 

 

得意の英語からまず自信をつけて、そのあとで数学を借りてとお家に行ったの

「うん」

 

借りた英語のノートは全部英語しか書いてなかったから、これじゃないの貸して、って言ったら、これしかノートはないっていうの

 

「それで?」

 

優しく微笑みながら、笑う準備をしてくれているが、

 

英語しか書いてない、で共通理解できない世界にいるのだあ、

誰か、助けてくだしゃい、と泣きそうになっている凡人に話のオチがあろうはずもなく、

 

and そして、とか

三人称、とか

ここは全文をまとめて、とか、書いてないし、とかオチになるとは思えません。

 

わからない人が書き込むのであって、

いらなかったということです。

 

英語しか書いてない英語の授業のノートって他に見たことがありません。

そこからはオチなしのマシンガントーク、たぶん3時間しゃべり倒したと思う。

誰も頼んでいないのに・・・

 

また会いたいから連絡先を交換していい? と交換した。

今度はマシンガントークをやめてみようと思う。できるかどうかはわからないが、

 

知りたい。

 

不思議の先を知りたいのです。

 

恩人でもある幼馴染に会えた昨日、毎晩、映画か? というほど見る夢をまったく見ませんでした。

 

不思議です。

 

 

 

島生活の癒し

 

早朝、道路沿いの草と格闘していると、毎回、元気よく、「おはよう! 頑張ってるね」 と軽トラから声をかけてくれる兄ぃ兄ぃがいる。

外人さんがカタコトの日本語で「オハヨウゴザイマス」 と頭を下げながら挨拶してくる。

日が昇るころになると、また違う挨拶が飛び交う。

 

幸せな気分がふわあと全身を巡るので、きっと何か体にいい・・・が出てきているに違いない、とこれは癒しだ~、と心から感謝している。

 

断捨離続きの日々はごみ収集車の職員さんたちとの間接的な・・・でもある。

 

透明度が弱い袋で資源ごみを出してアウト。

鉄なべを燃えないゴミ袋でアウト。

 

一生懸命、市の分別資料を見ながら取り組むも、残念な日々も続く。

 

東京都の分別習慣でついやらかしてしまうと、もちろんアウト。

 

炎天下の中、

ある時、全部合格して全部持って行った車に、頭を下げてお礼をしたら次の家のごみを乗せていた若い職員さんが、ごみを入れたあと、暑いだろうに、動きを止めて、こちらに向いて礼儀正しく頭を下げていた。

思わず涙があふれて、兄ぃ兄ぃ、ありがとう、暑い中、本当にお疲れ様、と、癒し・・・があふれ出てきた。

 

それからというもの、ますます資料をよく読み、ごみ箱を毎回洗い、足元になるだろう場所の草を取り除き、ありがとうの気持ち、伝われ! とおばあも頑張っている。

不合格の日もあるけれど、それでもあふれ出る癒し物質

 

***

 

庭の草取りをしていると、散歩しているのだと声をかけてくれる90歳は過ぎているのだという島のマダムたちが3人ほどおられる。

 

誰かわかる? と皆が同じ声掛けのあと、どなたも同じことを言う。

「ありがとうね」

「きれいにしてくれてありがとうね」

うっと泣きそうになる。

 

ゆっくり歩く後ろ姿に、気が付けば頭を下げている。

背筋を伸ばし杖を片手にウオーキングをして、自分の家でもないのに、

ありがとうね、と励まして立ち去る後ろ姿・・・

 

学生の頃、夏休みのバイトで得たお金で、初めて買った本は

 

「菊と刀」

「風姿花伝」

 

専門書に追われる人生になるだろうから、初めにこれを買え、

尊敬する方に薦められて買った二冊。

 

何度も何度も読んだ。

専門書に呑まれていく日々の中で、残念ながら

今でもすぐに手繰り寄せられる箇所は、情けないが、

 

「老人の後ろ姿を真似よ」

まず真似から入れ、先達をただ真似よ、と記憶している。

達人の奥義、あれこれ言うな、ただ真似よ、と。

 

島生活は真似なければと思う師匠が身近にたくさんいる。

日常の息をするだけで真似て生きる知恵が入ってくる。

それも癒し付きだ。

 

ようやく、真似よ、の意味がわかり始めたような気がしている。

真似よ、が癒し付き、

ありがたいかぎりです。

 

9月、ようやく散歩ができます

 

9月に入りました。

ようやく夕方散歩ができるようになりました。

子供と二人海まで歩いて行き、白い砂浜を歩きながら日が暮れるまで海を眺め、大きな鷲が棲家から飛び立つのをゆっくり待ったりしながら、ようやく日々を楽しめるようになりました。

 

大鷲の飛び立つ雄姿を見ることができるのは大抵、早朝。

諦めながらも、自然の癒しはそこにもあそこにも、

散歩できる涼しさ、ありがたく噛みしめながら、天気のいい日は続けようね、と

 

早朝散歩も気持ちいいですが、夏草に敗北していた7月・8月

 

それに立ち向かうように、鎌やのこぎりで、毎朝、草を刈り、木を切り、ここは森の奥ですか? と唸りつつも、

 

肉体労働も涼しいと気持ちいい汗がかけて、本当にありがたい。

 

南国の真夏

よく乗り越えたね、と子供をほめて、そして自分もほめています。

吸う空気が暑すぎると、体って本当にバテますものね。

二拠点生活は勘を取り戻す頃には移動、というのが一番辛い難点かなと思います。