(過去記事)
過去記事は長い。
時短の時代、誰も読まないよ、とまた足して長い。
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雨です。寒いです。
コタツを昨夜出してもらいました。
雨と言えばJAZZ
それに温かい珈琲
十分まったりとして用事で外へ出ると
なんと向かいの奥様、半そでTシャツ姿で階段のお掃除
私の防寒着姿にギョッとした様子
私も半そで姿に驚いて後ずさりしたが、誰が悪いわけでもない。
17℃ほどの短い冬のような季節とほぼ一年中真夏のような所
で生まれ育ち、今日のような気温は私の体感ではもう冬認定。
さて、どうする。
秋で体重を落とし基礎免疫力を上げるためにあれこれ想定しているが、
もうコタツを出したし、では様にならない。
夕食のあと、歩くぞ、と向かいの奥様の半そでパワーを覚えて
今日も7000歩、確保します。
そしてJAZZ
高校生の頃、部活から解放されて自由な時間が持てた束の間
進学先もたいていが決まり、散っていく寂しさもあって、JAZZ喫茶に
たむろしていたことがあった。
5人の時もあれば2人の時もあり、
きれいに焼きあがった厚切りトーストと珈琲で250円
暗い室内でランプの明かりやものすごい数のレコードや時計のコレクション
ピアノがあって、トランペットを時折マスターが誰もいない店内で練習して
いたこともあった。
正直、いもねえちゃんだった私たち
よく入れてくれたなあ、と今では不思議に思うほど店内の客は大人ばかり
それもたぶんJAZZがわかる人たち?
マスターは日野皓正さんを呼んだり、ナベサダさんを呼べたりできる人
なんだと、とわかったふうに話していたけれど、
場違いなところでよくまあ、女子高生数人で250円でたむろしていたもんだ
と、行くことになったきっかけがどうしても思い出せないが、凄く貴重な思い出
です。
卒業する前
私服で一人で行ってみた。
かっこつけて行ったのか、これももう覚えていない。
初めてマスターが声をかけてきた。
進学先を聞いてきたのでこたえると、店を出る時、メモを渡してくれた。
進学先の近くにあるJAZZを生演奏で聴けるお店の名前と地図が書かれていた。
進学先で学業が落ち着いた7月頃、そのお店に行った。
外人さんばかりで演奏者も日本人が一人もいない。
そもそもぽおーとしたいもねえちゃんが足を踏み入れるような場所ではなく
今度こそほんものの場違いだと自分でもさすがに気が付いた。
学生?
とトランペットを吹いていた黒人の青年に声をかけられ
どういう勉強をしているのか、と問われ、
なんちゃって英語でほぼジェースチャーでこたえたら、
「日本語教えて、僕、英語教えるから」
と自己紹介をしてきた。
早口の英語にきょとん状態の私に、待っていてよ、と奥から
店のオーナーだろう日本人男性を連れてきて通訳を頼んでニコニコと
話が成立したように満面の笑顔
○○さん?
Mさんからよろしくって電話もらってるよ、とオーナーは
いらっしゃい、珈琲ね、と煎れてくれた。
うちはトーストはないぞ、と、少し恥ずかしかった。
兵役が終わったら医学部へ進学するんだという、語学勉強のシェア
を申し込んできたJさんと、時間が合えば、オーナーの好意でお店の
隅で勉強をするようになった。
トランペットの音やピアノの音が響く店内で書いたり、聞こえない発音を
繰り返したり、
Jさんはみるみる日本語が上達していった。
私もニュアンスを伝えるジェスチャー力が上がった。
オーナーが主催したJAZZコンサートを手伝ったこともあり、
ポスターを貼りに出かけたり、ちょっと有頂天な日々が続いた。
楽しかったが、やがて地獄と呼ばれる実習、実習が続くと当然行けなくなり
そうこうしている間にJさんは帰国してしまった。
正月休み、帰省した際にマスターMさんへ珈琲カップのお土産を持って
お店をたずねた。
一人用の大人席に案内されて
まるでJAZZがわかるようなポーズだけは上手になっていたので、
かっこつけて座った。
マスターもすっかり誤解してハードルを上げて話し込んできたが、
なんだ、まだガキか・・・とものの数分で見抜いて、
まだあそこだな、と笑いながら昔の席へと仕切り直し
向かい合って座ると、
Jさん、帰国する前に遊びに来てくれたよ、と
きみのこと、ハーフ(黒人と日本人の間に生まれた子)
だと思っていたようだよ、と
英語が話せないのは可哀そうだと思ってきみに英語を教えたと
話していた、というのだ。
動機はそれ? 人の心の中は話してみないとわからないんだな、と驚いた。
住所、預かってるけどどうする?
というので、もらって帰ったが、英語で手紙を書く能力がなかったことと
学生生活の地獄ぶりに、忙殺されてそのままになってしまった。
雨が降る日に聴くといいよ
マスターもJさんもオーナーも同じようなことを教えてくれたので、
今でも雨が降るとJAZZを聴きたくなる。