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投稿者:拝原 しげる

 

昨日はぐるぐると子供を探して心配もしたぶん、今日は朝から動けず

 

なじぇに謝らないのだろう。

悟ったのは、親の方でした。

ようやく何かがわかったのです。

この子は若者、20代、人生一番楽しいだろう年代。

 

ーなじぇに、親の了解を得なきゃならないの。ー

 

 

私の20代なんて、親の言うことどころか存在すら脳裏になかったような、

 

 

ーなじぇに、好き嫌いを他人が決めるの。ー

 

 

私なんて、友達に恋に、あれこれ好きなことに夢中だった気がする。

 

 

ー仕事時間以外の私時間は私のものじゃん。ー

 

だよね・・・目からうろこです。

 

 

 

親の私からみたら、IQは幼児と言われれば、いつまでも幼児を保護している

感覚が抜けず、またそれがかわいくいとおしく、何年も続く子育ても気にならず、

 

ところが、今日、ぐったりしている私は幼児を育てる年齢ではありません。

部屋のドアを閉じて自分時間を過ごしている子は、明日の仕事の予定を聞いてきます。

 

お母ちゃんのほうの視点が自分軸でした。

謝って、思い切り人生楽しんで、とハグ・・・許可もらってしたいと思います。

 

***

 

27歳の時、人生に立ち止まったことがあります。

それこそ山に入り、一人座禅を組んで瞑想したこともありました。

 

インドの舞踊家・シャクティさんの

「立ち止まるな、立ち止まったら動け、人生は立ち止まるな、それは死だ」

という、踊ったあとのマイクパフォーマンスにどきっとして、

そのあと、山に入りました。

 

生きるって何?

ふと、人生って何?

と、立ち止まってしまいました。

 

静寂の中で得られるものはなく、職業を変えようと真剣に思ってみたりもしました。父親に決められた職業。毎日が真剣勝負の世界で立ち止まる時間はなかったのが幸いだったのか、長子出産の休暇の隙間時間に立ち止まってしまったのです。

 

夢中で時間を忘れるくらい大好きなことが仕事になり、

話しても話しても足りないくらいいつまでも一緒にいたい人と結婚して、

そんな人生を描いてね、と子供たちには勧めてきましたが、

自分の人生は何にも考えずに、目の前のことを片付け倒す、くらいの勢いできて

急に、ふと、ふと、生きること、を考えてしまいました。

 

今日、子供を見ていて、

折り紙をしたりゆったり過ごしているのをみて、

あまりのありがたさに涙が止まらなくなりました。

 

生きるって、生きていることじゃないか・・・

 

親の傍にいて、親に何かを押し付けられても言葉がうまく伝えられなくて

時にはレジを打つお姉さんの姿にあこがれて、家で電卓打ってみたり

 

限りある中での一生を与えてしまって、ごめんなさい、といじけている母ちゃんを

責めることもわからずとも、

 

ゆったりと自分時間に浸っている。

 

人は誰しも必ず老いやがては死ぬ。

環境や状況が一変する時もある。

 

山を一合登った気がします。

 

立ち止まるな、

でも立ち止まってしまったなら、まずは座ろう。

助けは、求める者には必ず与えられると信じています。

 

 

 

「ぐ・・・みん・なさい」

小学校1年生、入学して間もない頃、

うちの子の話ですが

 

支援学校の生徒6人のクラスで副担任になったばかりの熱血先生が

ある日、うちの子が機嫌が悪く乱暴に何かを扱ったのを、ここは教育だ、

と、「ごめんなさい」 を教えようと考えたそうです。 

 

こういう時は、友達にも先生にも、「ごめんなさい」 と

頭を下げて、言葉もきちんと教えて、時間がかかってもマスターさせようと決断。

 

ところが何度促しても、うちの子は、

「ぐ・ぐ・ぐっ」

ごめんなさい、が出ません。

 

ごめんなさい、を言うまで、先生も口きかない、とかいう流れになって

 

 

先生の並々ならぬ熱意、深い愛、この子の将来への期待などを面談で説明を受け、

私も、その熱意に胸が熱くなり、「ありがとうございます、先生」と手を取り合い、

担任のN先生と三人で、ワンチームになることを誓い、ごめんなさい、を聞くまで、これはいわば戦いです、と本腰を入れようということになりました。

 

3日後、

副担任のT先生に呼ばれていくと、

本の端をめくると子供がペコリとしている絵になるようなものをパラパラと見せながら、しょぼんとした顔で、もうやめたい、と。

 

 

うちの子供が教室に入ってくるなり、

「もういいですか。お母さん、話しても」

と私にいい、

つらい、話できないのは辛い、もう2日間は頑張った、もういいですよね、と

言い出したのそっちじゃないですか。ごめんなさい、は人として基本中の基本の言葉、これだけ使えれば生きていけるって、

 

 

「Tしぇんしぇ、あちたね、もうかえるね」と、挨拶に来たうちの子の、体無理しないでねという仕草らしいが、その合図を見るなり、めくり絵もそっちのけで駆けつけて行ってハグ

「話しないの先生、つらいよ」

「うん、わかってる」 とぷーさん、片手に抱っこしているうちの子

「明日も頑張ろうな」

「うん」

 

 

「あのう、でもいちおう、ごめんなさい、は言ってみようか。ごめんなさい、はい、一緒に、ごめんなさい」

と、私が声をかけると、

 

 

「ぐ・ぐ・ぐ・・・」 はあ、とぷーさん人形落としてしまった。

「いいよ、そっちで待ってていいよ」 待合室へ逃がしてしまうT先生。

「T先生」

 

子供が教室の外へ出たあと、

「お母さんは一生つきあっていくでしょう。親だから。生涯かけて教育できる時間が無限大にある。羨ましい限りですよ。これは親の仕事。僕は、ムリです。嫌われるのつらい。2日間話しないって、死にそうだったんですから。僕がね、暑い中、バケツの水運んでいたら、えらいねえ、と言ってくれたんですよ。ぼくのこの絵、いっちばんほめてくれるんですよ。親がやればいいじゃないですか。あの子、じぇーたい謝らない人、相当強いと僕踏んでます。お母さんは、生涯かけて続き、ぐ・ぐ・ぐの続き、よろしくお願いしますね。

 

***

 

あれからそうとうな歳月が流れ

 

今日、この人に、逃亡されました。

どうしても行きたくない、という土曜日のイベントを少々だまし討ちのような形で連れて行ったら、盛り上がっている親を置いていなくなりました。

 

スタッフさんや懐かしい子たちとイベントの楽しさに、お母ちゃんノリノリでいたら、トイレに行くといってそのままいなくなり、

車で2時間探し回ってようやく家に帰っているから、と家族からの電話で帰宅して合流。

 

心臓のドキドキを収める薬を飲んで休んで、

2時間たった頃、

 

部屋に入っていき、泣いて、心配したんだから、怖いことになったらと思ったら母ちゃん、心臓が痛い、もう死にそうだよ。どこにも行かんでね。いっつも一緒だよ

 

と大げさにハグしたら、

頭なでてきて

「ムリはムリだからさあ、音とか怖いんだよね。わかればいいって、もう」

 

ええ、嘘でしょう。

ここで、ふつう謝るんじゃないですか?

 

それで家族に、お母ちゃんが体調も悪いのにどれだけ今日あなたを探し回ったか

心配かけることをしたことはまず謝ろう、という流れをつけてもらって、

 

またヨタヨタと小芝居も入れながら部屋に入っていたら

おいで、と私を手招きし、ハグ。

「ぐみんなさい、はい、はい」 と蚊がないた、というような声のようなぐ・ぐ・

が聞こえた。

 

聞きましたか。

T先生、聞こえましたか。

言いましたよ。

たしかに、ぐみんなさい、と言いましたよ。

奥歯かみしめたまま、でしたけど、確かにいいました。

母はやりました。

体張って、おっそろしく強情なぐわんこモノについに、ついにです。

 

T先生、ありがとうです。

ぐわんこものが縁でお嫁さんになってくださったN先生へも、伝えてくださいね。

たくさんの方々の愛のリレー教育で、この子は、ぐみんなさいが言えましたよって

 

親も知らない子供の癖や苦手を先生やスタッフさんが丁寧によりそって、生きる力を育てていただいて、心から感謝です。

 

でも、なじぇ、謝りたくないんだろう・・・

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数日、気温差で、ヒートショックで少し休養していました。

過去記事を管理人にアップしてもらい、以前に読んでいた方、すみませんでした。

 

紙で出したことのあるものを電子書籍で出していく作業をしているのですが、

もう30年以上前に書いたものを読んで、心臓がドキドキしだし、しまいには呼吸も苦しくなって受診。

 

若い頃の自分が書いたはずなのに、刺激がキツ過ぎて途中でぽいっ!

 

無理! 

私が死んでからお願いね。

 

そのまま直しもいいから・・・すみません、お願いします、と意気地なしです。

 

やどかりのように貝殻の中にじっとおとなしくしていました。

 

***

 

鬼滅の刃の我妻善逸、少年、

「怖い、こわい、こわい」

よっく気持ちわかります。

眠って無になって何かに身を貸して、仕事をして、

それも覚えていない、凄いです。

 

グリム童話の作家さんは、棘が刺さった痛さで遺言状を書いたというエピソード

があります。

 

果てしなく想像してしまうというのでは、おそれおおくも同じですが

偉人を少しでも見習っていきたいものです。

 

棘で遺言状を書きながらも休まず進み続けたのですから。

 

 

体調が戻ったならば、

やどかりも足出して、そろりそろりですが、砂浜歩き出しました。

 

 

(過去記事)

 

有名なリトルアーニーのお話。

 

140年ほど昔のアメリカでの実話です。

救貧院にリトルアーニーと呼ばれている少女がいた。


8歳で母親が亡くなり、

10歳の時、アル中だった父親に

 

リトルアーニーは弟と救貧院に置き去りにされます。

 

世界中が貧しい時代、

劣悪な環境から、トラコーマという目の病気に罹り失明寸前になりました。

 

さらに追い打ちをかけるように、

救貧院に来て数カ月もしないうちに弟が亡くなってしまいます。

 

天涯孤独となったリトルアーニー。

重度の鬱状態になりました。

 

一切のことに無反応となったリトルアーニー。

食事もとらず会話もしない。

 

救貧院の職員、誰もがお手上げとなり、

地下の独房のような部屋に置かれます。

 

精神病院へ移されることになり、

せめてそれまで、と

 

若い女性職員が、

私に食事を運ばせてください、と申し出ます。

 

食事を運ぶたび声をかけても反応はなく、

聖書を読みますが、反応はありませんでした。

 

若い職員はあきらめずに続けます。

がらんどうの洞窟に向かって聖書を読んでいるようで、

 

だんだん辛くなっていき、

虚しくなり、

 

明日でやめよう・・・

他の職員が何度も挑戦した時と同様、

 

彼女も諦めました。

最後の朗読となった日、

 

彼女は応答のない虚しい朗読のあと、

どうせ今日も手つかずだ、と食器を下げようとしました。

 

ところが食事がなくなっていました。

彼女は施設の長へ報告します。

 

精神病院へ移すことを少し待とうということになり、

彼女は、食事を運ぶことと聖書を読むことを続けます。

 

リトルアーニーは救貧院で長じ、

やがてパーキンス盲学校に進学し、首席で卒業します。

 

リトルアーニーは、

のちに

 

見えない、聞こえない、話せない、

三重苦で苦しむヘレン・ケラーの先生になります。

 

「ウォター」

ものには名前がある、という概念を教えたアン・サリバン先生。

 

あなたは?

「Teacher」

 

多くの教師の教えを受けたヘレン・ケラーですが、

先生、と生涯呼んだのはサリバン先生だけだという。

 

小さなアーニーのあまりにも有名なお話を

書かせていただきました。

 

奇跡の人、

あやかりたい。