月別:2024年09月

 

今日は短い時間でしたが、久しぶりの珈琲タイムを街中のおしゃれなカフェで過ごすことができました。

 

昨日、30数年ぶりに超秀才だった幼なじみと再会し、

あまりにも優しい声や表情が菩薩様というのはこんな感じ? と思ったほどです。

 

私のマシンガントークを笑いながら頷きながら聞き通してくれて、

悟った人の持つであろう神々しさを子供のころから幼馴染の彼女に感じてはいたが、

長じて

 

いやあ・・・

自分の凡人ぶりに、改めて、

ああ・・・人って・・・こんなにも違うものなのか、と

 

こんな素敵な人が生まれて最初の友人として与えられた

稀有な、本当に自分は恵まれていたんだなあ、といろいろなことが脳内を巡り、

感謝。

 

私の巻いて巻いて勝手に語りつくすこれまでの話を微笑んで全部聞いていた。

 

いないよ、そういう人。

初めてだよ、そういう人。

 

不思議そうに質問していたのは、東京に住んでいてどうしてその語り口なのか、訛り?

話術? 取れてないだけ? 何故? ただその一点だけを何度も解こうとしていた。

 

そうです。

わが幼馴染はまだ全国模試が珍しかった頃、始まったばかりだったのかもしれない。

塾も予備校も家庭教師もいない、片田舎の学校から受けて全国1位を獲った超秀才なのです。ほぼ満点だったと聞いた。

 

もう一つ

私のマシンガントークに、秀才脳が ?

 

高校の夏休み、

親の押し付けてくる進路から逃げようと思い、あなたのノートを借りに行ったところね、

「うん」

 

 

得意の英語からまず自信をつけて、そのあとで数学を借りてとお家に行ったの

「うん」

 

借りた英語のノートは全部英語しか書いてなかったから、これじゃないの貸して、って言ったら、これしかノートはないっていうの

 

「それで?」

 

優しく微笑みながら、笑う準備をしてくれているが、

 

英語しか書いてない、で共通理解できない世界にいるのだあ、

誰か、助けてくだしゃい、と泣きそうになっている凡人に話のオチがあろうはずもなく、

 

and そして、とか

三人称、とか

ここは全文をまとめて、とか、書いてないし、とかオチになるとは思えません。

 

わからない人が書き込むのであって、

いらなかったということです。

 

英語しか書いてない英語の授業のノートって他に見たことがありません。

そこからはオチなしのマシンガントーク、たぶん3時間しゃべり倒したと思う。

誰も頼んでいないのに・・・

 

また会いたいから連絡先を交換していい? と交換した。

今度はマシンガントークをやめてみようと思う。できるかどうかはわからないが、

 

知りたい。

 

不思議の先を知りたいのです。

 

恩人でもある幼馴染に会えた昨日、毎晩、映画か? というほど見る夢をまったく見ませんでした。

 

不思議です。

 

 

 

 

早朝、道路沿いの草と格闘していると、毎回、元気よく、「おはよう! 頑張ってるね」 と軽トラから声をかけてくれる兄ぃ兄ぃがいる。

外人さんがカタコトの日本語で「オハヨウゴザイマス」 と頭を下げながら挨拶してくる。

日が昇るころになると、また違う挨拶が飛び交う。

 

幸せな気分がふわあと全身を巡るので、きっと何か体にいい・・・が出てきているに違いない、とこれは癒しだ~、と心から感謝している。

 

断捨離続きの日々はごみ収集車の職員さんたちとの間接的な・・・でもある。

 

透明度が弱い袋で資源ごみを出してアウト。

鉄なべを燃えないゴミ袋でアウト。

 

一生懸命、市の分別資料を見ながら取り組むも、残念な日々も続く。

 

東京都の分別習慣でついやらかしてしまうと、もちろんアウト。

 

炎天下の中、

ある時、全部合格して全部持って行った車に、頭を下げてお礼をしたら次の家のごみを乗せていた若い職員さんが、ごみを入れたあと、暑いだろうに、動きを止めて、こちらに向いて礼儀正しく頭を下げていた。

思わず涙があふれて、兄ぃ兄ぃ、ありがとう、暑い中、本当にお疲れ様、と、癒し・・・があふれ出てきた。

 

それからというもの、ますます資料をよく読み、ごみ箱を毎回洗い、足元になるだろう場所の草を取り除き、ありがとうの気持ち、伝われ! とおばあも頑張っている。

不合格の日もあるけれど、それでもあふれ出る癒し物質

 

***

 

庭の草取りをしていると、散歩しているのだと声をかけてくれる90歳は過ぎているのだという島のマダムたちが3人ほどおられる。

 

誰かわかる? と皆が同じ声掛けのあと、どなたも同じことを言う。

「ありがとうね」

「きれいにしてくれてありがとうね」

うっと泣きそうになる。

 

ゆっくり歩く後ろ姿に、気が付けば頭を下げている。

背筋を伸ばし杖を片手にウオーキングをして、自分の家でもないのに、

ありがとうね、と励まして立ち去る後ろ姿・・・

 

学生の頃、夏休みのバイトで得たお金で、初めて買った本は

 

「菊と刀」

「風姿花伝」

 

専門書に追われる人生になるだろうから、初めにこれを買え、

尊敬する方に薦められて買った二冊。

 

何度も何度も読んだ。

専門書に呑まれていく日々の中で、残念ながら

今でもすぐに手繰り寄せられる箇所は、情けないが、

 

「老人の後ろ姿を真似よ」

まず真似から入れ、先達をただ真似よ、と記憶している。

達人の奥義、あれこれ言うな、ただ真似よ、と。

 

島生活は真似なければと思う師匠が身近にたくさんいる。

日常の息をするだけで真似て生きる知恵が入ってくる。

それも癒し付きだ。

 

ようやく、真似よ、の意味がわかり始めたような気がしている。

真似よ、が癒し付き、

ありがたいかぎりです。

 

 

9月に入りました。

ようやく夕方散歩ができるようになりました。

子供と二人海まで歩いて行き、白い砂浜を歩きながら日が暮れるまで海を眺め、大きな鷲が棲家から飛び立つのをゆっくり待ったりしながら、ようやく日々を楽しめるようになりました。

 

大鷲の飛び立つ雄姿を見ることができるのは大抵、早朝。

諦めながらも、自然の癒しはそこにもあそこにも、

散歩できる涼しさ、ありがたく噛みしめながら、天気のいい日は続けようね、と

 

早朝散歩も気持ちいいですが、夏草に敗北していた7月・8月

 

それに立ち向かうように、鎌やのこぎりで、毎朝、草を刈り、木を切り、ここは森の奥ですか? と唸りつつも、

 

肉体労働も涼しいと気持ちいい汗がかけて、本当にありがたい。

 

南国の真夏

よく乗り越えたね、と子供をほめて、そして自分もほめています。

吸う空気が暑すぎると、体って本当にバテますものね。

二拠点生活は勘を取り戻す頃には移動、というのが一番辛い難点かなと思います。