32年前の主人公、渡辺謙さん

32年前の主人公、渡辺謙さん

(過去記事)

 

「尾瀬に生き、尾瀬に死す」

 

テレビを産休に入ったのを機会に買い、最初に観たのがこのドラマだった。

尾瀬の道を登っていく俳優があまりにも懐かしい人に似ていたので、TV局に電話をかけて俳優の名前を教えていただいた。

 

渡辺謙さんはそのあとも「独眼竜正宗」などで活躍され、その後は世界のケン・ワタナベとして今ではあまりにも有名な方である。

 

当時、27歳・28歳の頃

ICU勤務と幼い子供2人の子育てに忙しい日々、

仕事で論文をまとめる役目を請け負ってしまい、NECワープロ文豪ミニ5UVを買った。

 

大きい、そして重い、そして革命だった。手書きの時代が終わったのだ。

 

職場の会議室に置かせてもらい、仕事の隙間時間にタッタッタと打っている傍で同僚が、「触わらして」と恐る恐る手を伸ばしてきたり、

死ぬほど忙しいのに、若いというのは恐ろしいものですね。無我夢中で勢いで習得していくのですから。

 

***

 

それからしばらくして外国在住の身内からTVある? と

謙さんのニュースを教えてもらった。

 

「天と地と」の降板、闘病の報道。

 

通訳ボランティアで知ってはいたが報道されるまで電話は慎んでいたようだった。

 

その日の仕事帰りに気づいたら文豪ミニを自宅に持ち帰っていた。

休暇を5日もらえ、3日間子供たちと海で遊び、残り2日間は子供たちを保育所へ預け、生まれて初めて小説を書いた。

 

***

 

助かってほしい、生きてほしい、

祈り方もわからないまま、ワープロに向かうと指が勝手に動き、気づけば物語が生まれていた。

 

渡辺謙さんに演じてもらいたい、そう祈って書きました、と後に編集者の方にこの時の様子を話したら、二人でいつまでも話が止まらず、それが次の小説をおろしていくきっかけになった。

 

***

 

それから人生の波乱万丈も激しくなり、小説を書く時間はほぼなくなっていった。

主人公の姿が先に降りてくる、という不思議が起きて、

その方に触発されて、その方のイメージで物語が生まれていく。

 

***

 

「緩和ケア病棟」という小説も、先にあまりにも清潔で高潔なナースに出会ってしまい、その方を目で追い意識した1日ののち、数日後に物語が降りてきた。

 

主人公が先にいた。

 

本当に不思議です。

そうでなければ二足の草鞋を履く小説書きが、またぞろ書き出す、直して出す、ということなど無理な話です。

 

どの仕事も同じで、そんなに物事、甘くはない。

資料も時代考証もほぼほぼしてこなかったので、ようやく時間ができた今、調べてみると、恐ろしい、合っている。

 

怠けて放置していることさえも忘れて、そろそろ天国へ帰っていくのかなあ、と油断していたら、やるべきことを放置している人の中には、入り口で追いかえされてしまう人もなかにはいるらしい、と聞き、ええっ、そうなの? と焦りが生まれ、恐ろしくもなり、終活意識で、大昔の原稿を断捨離、断捨離、と手を付け始めました。

 

ナーバスな私に喝! を入れるコツを知り得ている友人のアドバイスは時にありがたいです。

 

 

どの花も咲いた オペ室編4

どの花も咲いた オペ室編4

 

 

敬語の使い方が間違っているらしく、

「タラちゃん」

と新人は呼ばれるようになった。

 

全国からUターンしたベテランナース達は、オペ室オープンに向けて、術式、手技を基本、病院の核となるスタッフに寄せていくことになる。

 

現役オペ室のエリートたちを集めたなかで、おさめていく師長と主任は必死だった。今だとIT技術が進んでいるのでシミュレーションももっとスマートにできるものだと思う。

 

当時はアナログ

簡単なオペから引き受けていき、だんだん難度の高い症例も引き受けていく、その予定月数などもオリエンテーションされていたが、新人には初めのオペから、オペだった。

 

ドクターは同じメンバーでまずは、彼らと一緒に仕事をこなしてきた主任が器械出しをし、師長が外回りをする。すでにできあがっているチームのオペは流れるようにスムーズで、それに応える主任と師長の仕事を見学することから始まった。

即戦力になれる人が優先に見学に入り、主任の横に立つ、器械出しを代わる、主任が横で見守るなか完全に一人でやりきれたあと主任は降りる。

スムーズな支障もない完璧な状態だとドクターや主任が判断したら、主任はその人の外回りにつく。

しばらくしてその必要もなくなったら、次の即戦力へと指導が移る。

 

心臓外科や脳外もこなしてきた先輩方のそれぞれのデビューを新人は見学を許された。

 

「たぶん私より凄い人たちなのよ、みんな」

 

一緒に立って見学の指導までする主任が教えてくれる。

 

「タラちゃん、よくみておくんだよ」

 

かっこよくオペ着に腕を通す北里帰りのいつもはおちゃめな先輩が、きれいに並べていくメスや鉗子や止血用の糸

 

全員で何度も受けたマニュアルどうりの並べ方。

立ち方、構え方。

「よろしくお願いします」

オペレーター、執刀医の一言でオペ開始。

麻酔医が頷き、器械出しがガーゼをそれぞれに渡していく。

 

おちゃめな先輩はどこにもおらず、別人のようなまなざしと動きの完璧な美しさ。

手術の流れは、初めてのチームと思えない静かな流れの中であっという間に閉腹に至った。

花がカタカタと音を立てて咲いていく様のような、踊りの舞いがストーリーを作り上げていくような、鳥肌が立つようなそれぞれの腕先の技にただただ感動。

 

咲いた。

先輩、かっこいいよ。

やっぱ先生たち、かっこいいや。

 

どの先輩の開花の瞬間も鳥肌ものだと、感動につぐ感動。

それは派閥もできるよ、みんな凄いし、完璧だし、

 

新人は、見学、見学の最初は、それはそれは充実した高尚な世界に浸っていました。すぐに自分もああならなければいけない、なんてことを考えながら見学していた同期の新人たちの休憩中の言葉を聞くまでは。

 

あれをやれってこと?

「当たり前じゃん。タラちゃん、大丈夫? あの人たち、難度の高いオペの最初をやって見せてくれたら、大抵、外回りだって想像つくでしょう。この子、天然過ぎる」

 

あれをやるってこと?

「そう」

 

どの花の開花も凄すぎる、美しすぎる・・・

花咲く日・・・私たちも迎えなければならないってこと?

「はい、そうです」

 

・・・

 

外回りの指導も始まり、 オペ室編3

外回りの指導も始まり、 オペ室編3

 

月曜日から土曜日の午前中まで勤務。

それと月2,3回のオンコール勤務。 

 

開院、手術室オープンまでの間、麻酔科医による、挿管、血管確保、心電図の症例実習、術式以外のシュミレーション講義を重ねに重ねたあとも、

 

土曜日の午後は希望者用に、講義や実習が続けられていた。

県外から1年、2年の応援ドクターがそれこそ手取り足取り教えて下さった。

 

 

器械出しからいよいよ外回りの指導も始まり、

麻酔カートの点検、中身の配置などを確認していたら、

「今日はすぐ帰らないでね、少しみな集まって」 と師長。

 

器械の説明会かな

と一日の業務を終えて休憩室に行くと、みなソファや椅子でくつろいでいる。

そして一人ひとり名前が呼ばれ、私の番になった。

 

「お疲れさまでした。はい、金の成る木さん」

と厚い封筒を渡された。

 

初給料だ。

 

その厚みにガクガクと震える新人に、

「開けてごらん」 と

 

お札の束を持つのは生まれて初めて。

手はガクガクとお札を落としそう。

 

「何枚まで持ったことあるの?」

「3万円」

 

「数えてみせて」

 

長いテーブルに一枚、二枚、三枚、置いていく。

十枚置いてもまだあった。

17万6千円。

 

「封筒に早くしまえ」

「今日はぶっそうだから誰か車で送って行ったほうがいい」

心配するドクターたちに、主任が、

 

「大丈夫、一緒にタクシー乗せてこの子先に降ろすようにするから」 と、

 

封筒を大事に持って主任にその日はありがたく送ってもらった。

 

そして、仕事がだんだんただの負荷ばかりから達成感も少し感じるようになった6月10日、帰宅前の集合がかけられ、名前を呼ばれ封筒がまた手渡された。

 

また厚い封筒だ。

 

「手当てよ」

手当って何?

 

「数えてごらん」

 

お札を並べた。

 

17万円。

 

「師長、私、この前いただきました」

そういうと、

 

これはね、と師長が封筒の表に印字されている内容を教えてくれた。

危険手当に、オンコール、などなど

 

今度は私が主任をタクシーに誘い一緒に帰った。

封筒から直接出したらダメだよ、と教えられていたので財布に少し移し、緊張して支払ったのを覚えている。

 

月に2度のお札の束、慣れるのに一年はかかった。

それから生まれて初めてもらったボーナス、年末調整、給料、これでもかの12月の札束ラッシュ。

 

働くって、こういうことかあ・・・

学生の時の忍耐と違って、対価が生じる、なんともいえないふわふわ感。

 

 

金の成る木は初給料で親に服を買い送り、ボーナスで兄の子を連れて正月帰省を果たした。堂々の返済20万円、プラス、気持ちを少し手紙と一緒に渡した。

 

凱旋した気分だった。